オリンピック医療支援スタッフが見た 五輪の医療体制

当院の脳神経外科部長・安田宗義医師が東京オリンピックパラリンピックのメディカルスタッフ(選手への医療支援を行うスタッフ)として参加した件の続報です。

安田医師から医療体制報告をいただいたので公開いたします。
無観客の中で行われた今大会。スタッフとして参加した安田医師が見た、選手の奮闘、五輪の医療体制など当時の様子が細かに綴られています。

 

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カモメが見た夢
~オリンピック・パラリンピックトライアスロンの医療支援報告~

 この夏の東京2020+1オリンピック・パラリンピックに、トライアスロンの競技会場ドクターとして参加しました。かねてから私はトライアスロンを趣味でやってきたのですが、2019年夏に競技仲間から聞きつけて日本トライアスロン連合の募集に応募したところ、選ばれました。

 そもそもトライアスロンってなじみのない方も多いと思います。これは3種類(トライ)の競技(アスロン)を一度にまとめて行うスポーツです。オリンピックの場合、スタートとともにスイム1.5キロを泳いだらすぐに自転車(ロードバイク)で40キロ走り、最後にラン10キロを駆け抜けてゴールします。その過酷さゆえに別名鉄人レースとも呼ばれています。普段から一般向けのトライアスロン大会に出てはいるものの順位は下から数えた方がはやい、そんな五十路の私です。オリンピックに選手で出場するのはありえないけど、医師として世界一流のアスリート達のレースに加わるチャンスに恵まれ嬉しかったです。

 2020年早春、医療スタッフ向けの事前学習会が始まりました。トライアスロンは屋外で全く違う3種目をこなすので、想定される医療トラブルは多岐に渡ります。例えばスイムでは溺水、バイクでは落車による多発外傷、ランでは大会が夏場なだけに熱中症や脱水に注意が必要です。その他、屋外競技として雷撃症、オリンピックなのでドーピングやテロ対策もテーマに取り上げられました。また円滑な医療活動を実地で行うためには、オリンピックの会場・競技運営手法やそこで使用される共通略語(VMO、AMSV、MOM、AMS、FOPなどなど!)を理解しないと、当日の会場では身動きすら取れずナントモなりません。慣れて覚えるまで結構苦労しました。

 本格的な準備が始まり、いよいよという矢先に新型コロナ感染症が発生してしまいました。はじめ対岸の火事とタカを括っていた海外から、国内に次々と飛び火して迫る得体のしれない感染蔓延に不安をかき立てられたものです。そこへ自宅待機、買い占め、各種自粛が続き、まるでSF映画のような人類規模の混乱と分断が起きました。学習会はいつの間にか中断し、とうとうオリンピックそのものが史上初の1年延期。誰一人想像しえなかった展開。深い喪失感を味わいました。これまで私たちがその盤石さをつゆほども疑わなかった21世紀の社会秩序、それがいともはかなく崩壊しました。オリンピック延期はその象徴だった気がします。

 2021年を迎え春が過ぎても、私たちスタッフにはオリンピック開催か中止かの決定が全く伝わってきませんでした。ただ、前年に中断したままの事前学習会だけはネット配信されるe-ラーニングに形式を変え、ほそぼそと再開しました。とりあえずがんばって講習内容を頭に詰め込みはしたものの、大会を開くのはさすがに無理なんじゃないかと半信半疑のままで、どうもモチベーションが上がりませんでした。そうして会期まで時間だけがだらだらと過ぎ、気がつけば海外選手団が少しずつ、ひっそりと日本国内に集結。そして7月中旬、開会日直前の土壇場に無観客決定が発表され、こりゃどうやらホントに開催するゾと私たちも悟りました。そこからです。堰を切ったように膨大な業務連絡が来るようになりました。各担当者はギリギリまで必要な指示をもらえず、じらされ振り回されたとみえて実に慌ただしい。彼らもさぞ大変だったと思います。そこからまたたく間に7月23日の開会式。自宅のテレビでセレモニー中継を観てようやくオリンピックへの実感が湧きました。

 

 オリンピックトライアスロンは開会式翌週に計3日間行われましたが、私が医療支援を担当したのは最終3日目の男女混合リレー。レース日は7月最週末で、私は競技前日に現地へ向かいました。開催場所はオリンピックメイン会場内のお台場海浜公園です。JR新橋駅から公園に向かうゆりかもめに乗ると車内にユニフォーム姿のボランティアがちらほら目に付くようになり、レインボーブリッジを渡る車窓からは海に浮かぶ五輪モニュメントが見えて、いやがうえにも祝祭感が高まります。会場内の医務室を下見で訪れると、このとき初めて一緒に働く医療統括者の方たちと会えました。それまではコロナの影響に不透明な開催判断のせいもあって、お互いになかなか対面を果たせずにいたのです。競技進行のキーマンとなるのは現場調整係。私の立場は割り当てられた業務をこなすだけで気楽でしたが、彼らは開会前から幾度となく降りてきたであろう不意な変更にも終始辛抱強く、笑顔を絶やさず対応されていました。それはこちらが見ていて、いったいいつ寝ているんだろうと心配になるほどの奮闘ぶり。この大会への強い責任感が満ちた姿勢に心底頭が下がりました。もし後の世でこのオリンピックを評価してもらえるのなら、それはエライ人の功績というより、こういう無名な人達の熱意と誠意の賜物でしょう。医務室で打ち合わせのあと会場そばの宿舎に入り、夕刻の空き時間で近所を散策がてらジョギングへ。すると、近所の大きな陸橋の上にオリンピック聖火がありました。実物は思いのほか小さい印象。テレビの開会式でも観た聖火台は開いたハスの花のようで、日本らしい気品が美しかったです。人の密集を避けるためその場所も公表されなかった聖火。周囲を広大な規制線と警備員に囲まれ、はるか遠くでゆらゆら燃えています。皮肉な光景でちょっと複雑でした。

 翌日、男女混合リレー本番は朝7時30分のスタート。午前3時に会場入りした私たち医療スタッフ陣は、ここでようやく一同に集い初顔合わせできました。急ごしらえ感が否めませんが、与えられた責務の重さに変わりはありません。互いに顔と名前を覚えるところからはじめ、短時間で仲を深めチームワークを発揮できるように努めました。自己紹介とスケジュール確認ののち、めいめい所定位置につきます。トライアスロンは海辺のスイムエリアから周辺道路を利用したバイク・ランコースまであって、競技ゾーンが広範囲かつ複雑です。オリンピック全競技中、最も救急車が多く配備されたのもトライアスロンだったそう。私たちの医療ボランティア活動も医務室のほかに海岸、路上に救護所を設け、更にオートバイで自転車の選手を追走するチームも編成されていました。

 会場内で診療のメインとなる医務室では、必要な医療物資が規定された通りに細かく用意されていました。そのぶん私たちが外部から医療器具を持ち込むことは禁止。これは過去の大会から蓄積されたノウハウの結晶です。今回の東京大会でも、診療を受けた選手の経過はデータベース化されて国際オリンピック委員会IOC)幹部に毎日報告され、次回以降に反映される仕組みになっていました。医療部門に限らず、オリンピックは全ての競技種目で統一された会場レイアウト、役割分担や進行手順を確立しており、それを円滑に運用するための共通用語まで独自に作り上げています。オリンピックファミリーというのは世界最大のスポーツ興行をあらゆる国で精密に実行できるよう発達した巨大システムだと実感しました。

 今回のオリンピックでは社会でのダイバーシティー(多様性)が掲げられ、その一環として男女混合種目がずいぶん増えました。私が参加した男女混合リレーもオリンピックトライアスロンとしては新種目。男女2名ずつ計4名のチームで出場し、全員がそれぞれ順番に短距離のトライアスロン(1人あたりスイム300メートル、ロードバイク6.8キロ、ラン2キロ)をこなしてリレーします。ショートなぶん、選手はペース配分おかまいなしにはじめから全力でぶっ飛ばすので見ごたえたっぷりです。私の持ち場はメインの医務室でレース会場のホームストレート真ん前。これ以上の特等席はありません。世界のスーパーアスリートたちがすぐ目前に集まってきます。スタートを控え集中力を高めてゆく鍛えぬいた若い彼ら。そのオリンポス彫刻のような体からは、国を代表する緊張感やオリンピック出場の誇らしさがひしと伝わるようでした。いよいよスイムスタート台に選手が並んでゆきます。すぐ頭上に中継用とみられる2、3のヘリコプターも寄ってきました。ヘリなんてふだんは遠くで小さなハエみたいにせわしなく通り過ぎるだけなのに、今日はどこにいくでもなく、その白い腹を見せながら海の上をふわりふらりと漂いこちらをうかがっています。その様は、翼に上昇気流をはらんでただよう港のカモメのよう。ふいに浮かんだ「ヤーチャイカ(私はカモメ)」のひとこと。ソ連女性宇宙飛行士テレシコワの言葉だったかな。

 On your mark!のアナウンスで一瞬の静寂をおいて電子音の号砲ひとたび鳴るや、選手たちは矢のように海へ吸い込まれました。軽々と伸びるようなストロークでスイムを終えたら次々とバイクにまたがり飛び出します。躍動の姿とスピードには鳥肌が立ちました。競技中は過ぎ行くアスリート達に拍手を送りましたが、やっぱり日本チームの応援には力が入ります。私の傍らではコースの柵沿いに各国コーチたちが集まって身を乗り出し、様々な言語で檄が飛び交います。最後のランを終えるまで迫力満点でした。すばらしかったのは、優勝をつかんだチームはもちろん最後のチームまでみんな胸を張ってフィニッシュラインを切ったこと。健闘を称え合う情景はすがすがしいものでした。レースを終えるとどの選手も充実と安堵の表情になり、会場はリラックスした雰囲気に包まれます。日本や海外の代表選手はみんな気さくで明るい人たちばかり。オリンピックはメダルに手が届かなかった人の生きざまにも美しさを宿すと思いました。

 競技中の医務室では、重度熱中症の応急処置のために氷水のバスタブ、アイスバスがふたつ用意されました。もしぐったりした患者が運ばれてきたら網マットを使って中に漬け、直腸温と血清ナトリウム/血糖値をモニターしながら入浴させる手順。みんなで練習をくりかえして備えました。さいわいにも私が参加した男女リレーで大きな傷病事案はなし。当日の天候はうす曇りだったため、心配されたほど気温は上がらなかったのです。選手数名が熱疲労のため医務室で簡単なアイシングを受けたくらいで、みなさんすぐ元気になってアイスバスの出番もありませんでした。真夏の東京は海で泳ぐのにうってつけかもしれませんが、屋外をマラソンで走るというのはどう考えても無謀。アスリートファーストなんて言えたものではありません。せめて9月にレースを開催して初秋日本の素晴らしい気候を世界のアスリートに満喫してもらいたかったよ!というのが本音です。

 

 1か月後の8月に開催されたパラリンピックでは2日間行われたすべてのレースに参加しました。

パラリンピックでは選手が持つハンディキャップによって全部で4つの競技クラスが設定され、おのおのに男子・女子の区別があるため、合計8レースが行われました。

オリンピックのように、パラリンピックでもトライアスロンのスイムは全クラスでお台場の海を泳ぐのです。視覚障がいの選手も例外ではなく、伴走者とロープで体を結んで泳ぎます。野外水泳は通常のプールスイムとは大きく異なります。例えば、自分が泳ぐ進路にはコースロープなどなく、ところどころ置かれたブイだけが目印です。潮流もあるなか、他のスイマーと一緒になって、時には互いに接触しながら泳がなければなりません。障がいのない方でも練習を積んでいないと無事に泳ぎ着くのは困難で危険なのです。

 それでも、パラリンピックではどの選手も迷うことなく水に飛び込んでいきました。彼らの姿からは勇気とその裏ににじむ努力の量が感じられ、そばで見る佇まいは神々しくすらありました。海上のスイムコースではサーフボードやジェットスキーに乗ったライフセーバーが選手に伴走し、私たち医療チームは少し離れた桟橋で東京消防庁のダイバー達と待機していました。幸いにもスイムではさしたるトラブルもなく、全選手が無事スイムアップ(上陸)しました。

 パラリンピックではバイクパートの乗り物が特徴的です。車いすクラスの選手は両下肢が動かないため、仰向けに寝そべるようにして手で漕ぐ特殊な自転車(ハンドサイクルリカンベント)で出走します。見た目はまるでF1カーのようで、普通の自転車よりも速度が出やすいうえ体が地面すれすれで走りますから体感スピードは相当なもの。しかも前方視界が悪く急な進路変更もできないので乗りこなすのは大変なはずです。裏を返せば、この乗り物はコース上のスタッフにも大変危険で、うっかりするとはねられてしまいます。今回のパラリンピックではそんなハンドサイクルがこれまで日本で例がないほど一度に多数出走したのです。コース脇で初めて見た私はちょっと腰が引けてしまいました。

 このバイクパートではハンドサイクルに乗っていた選手一名が衝突負傷しました。車いすクラスの選手は下半身の自由が利かないのでとっさの受け身が取れずに重傷を負いやすく、しかも痛覚麻痺部分だとケガをしても本人すら気づかないことがあります。さらに、多くの方が脊髄障がいを持つため自律神経バランスが崩れやすく、外傷ストレスを契機に脈や血圧が乱高下しやすいのです。このように彼らには一般選手や他クラスのパラ選手とは異なる体調特性があり、外傷ケアを行う際に一層の配慮が必要でした。脊髄外科指導医である私はその専門柄、一般の医師よりもずっとたくさんの脊髄障がい患者さんを診療してきた経験があり、診療にはそれなりの自信がありました。しかし、じつは脊髄障がいアスリートに会ったことはなく、ましてやそういった方の重症外傷を診療したこともありませんでした。いざパラ選手の診療に関わってみれば、私にも知らないことだらけ。多くの貴重な教訓を得ました。

 最後はラン。肢体障がいクラスでは装具を着け、視覚障がいクラスでは伴走者と一緒に、そして車いすクラスでは三輪のレース用車いすに乗って走ります。男子PTS4(肢体障がい)クラスで私がフィニッシュエリアの担当をしていた時です。ラン前のバイクパートのころからひとり、ずば抜けて速い選手がいました。市街の周回コースをまわってくるたびに他の選手を抜き去り、みるみる順位を上げてくるのです。会場がにわかにざわつきます。しかもこのひとはいつも左手だけで疾走するバイクのハンドルを操っています。肩から先の右上肢を全欠失しているからです。それでいて無駄のないフォームには一切のブレがなく、急カーブやアップダウンの激しい難コースを闊達に走り抜けます。それはぱっと見た目、右腕もふつうにあって使っているように錯覚するほど。もしロードバイクに一度でも乗ったことがあれば、これがどれほど困難なことか分かるはず。よほどのバランス感覚や体幹の強さと柔軟さがなければできない離れ業、私だったら漕ぎだすだけで精一杯です。黒と赤2色のぴったりしたトライスーツは引き締まって日焼けした細身の体に良く似合い、黒ヒョウの精悍さ。胸には日の丸とJPNの文字。日本代表の宇田秀生(うだひでき)選手です。彼はランに入っても衰えるどころかますますギアが上がって驚異の追い上げ。私と一緒にいた外国のスタッフもあいつスゲーな!と感嘆しきり。会場の目をくぎ付けにしながら先行するライバルたちをごぼう抜きして、ついに銀メダルを決めたのです。たいていの選手がフィニッシュと同時にへたり込んで虚脱してしまうなか、ただひとりみなぎる雄叫びを上げ男泣きする宇田選手。その姿からはこれまでの苦悩や感謝や喜びがあふれ出て、居合わせた私にも忘れられない情景でした。本来なら彼には満場の喝采が贈られたはず。無観客だったというのはまこと残念。でも、空にはカモメがいます。すばらしき最高の一瞬はヘリのカメラから日本中で応援する目にも届いたはず。お台場の海を渡る風にのって、全国から声なき歓呼が聞こえた気がします。すべてのアスリートに惜しみない敬意と賛辞を。

パラトライアスロンはオリンピックとも違うだけでなくクラスごとのレーススタイルも実に多彩。それぞれが完全に別のスポーツ種目のようで、見ていて興味深い。全予定を無事に終え、私も医師としての達成感に浸りほっとしました。

 

 東京2020+1大会はコロナ禍で第5波が押し寄せている最中に行われました。感染制御や医療逼迫、日常強いられてきた自粛を思えば、賛否両論あるイベントです。ただ、開催する以上、その日のため打ち込んできた選手達には人生最高のパフォーマンスを悔いなく発揮してもらいたい。私の支援が少しでも役立ったとしたら幸いなことです。

 トライアスロンの医療支援はまるで災害医療の疑似体験であったともいえます。野外傷病者ケア、即席医療班での共同作業、消防や警察との協力、通信・輸送の確保などのノウハウに触れ、私にとって大きな財産となりました。共に活動したほかの医療スタッフ有志とは現場で会うまで面識はなく、一緒に過ごしたのもたった数日。でも、不安の世相と大会が織りなす困難の数々をみんなで助け合って乗り切りました。全員がひとしく成功を願っているのが言わずとも分かり合えたからです。こうしてようやくベストチーム完成と自信を持てたときにはもう解散の日。このご時世、おつかれパーティーも打ち解けねぎらい合う機会もなく、別れ際はあっさりしたものでした。仮設会場もすぐに解体され、二度と訪れることはありません。密を避けたひとりぼっちの帰路、ゆりかもめに揺られながら遠のくお台場を窓から眺めるのはじつにうら寂しい気分でしたが、それでもなぜか私の心を満たしてくれるものがありました。それはあの時あの場にいたすべての人との連帯感だったと思います。人々の情熱と結束が生んだつかの間の夢を胸に、また代わり映えのない毎日に戻っていきます。

 

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